説得の技術、人狼ゲームのススメ

一昨日は、僕の人狼仲間の結婚式だった。というわけで記念投稿。
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ディベートという「ゲーム」がある。
これはどういうわけか、あまねく学校教育に導入されているようである。僕も学校でやった。
割と得意なつもりだったように思う。

ディベートは、理不尽な口論にならないよう、いくつかのルールが定められている。
通常、ある議題に対して賛成と反対のいずれかの側に立ち、チーム戦をする。
チームに加わったら、たとえ自分自身がその意見に同意してなくても、チームの意見に乗る形で発言をせねばならない。

ディベートは何の練習なのか?
論理思考力の訓練だと言う。それはあるかも知れない。
(本音を言うと僕は、「論理思考力を養う」という感覚がよくわからないが。)
客観的視点を持つ訓練だと言う。それもあるかもしれない。
説得力の訓練だと言う。ディベートというのは「相手を説得するゲーム」であるから、これは当然だろう。

本当にそうか?ディベートは説得なのか?

より的確な言葉を言えば、「論破」だろう。ディベートのゴールは論破だ。

論破=説得か?

これは実に、僕が三十路を過ぎるまでずっと誤解していたことだ。(恥ずかしながら!)

説得というのはつまり、相手を自分の意見に同意させることだ。
その為の手段の1つして、論破がある。

記憶を辿ると、僕は二十歳くらいまでずっと、説得の主な手段として「論破」を使用していたように思う。
当時の僕が付き合ってた友人達との間では、それで良かったのだ。
「論破=説得」で、それ以外に無い。それが普通のことだとずっと思っていた。
もちろん、僕が論破されることもしばしばあった。そういう場合は「僕の負けです」と認め、意見を修正する。
そこには一切の駆け引きは無い。極めてスピーディなコミュニケーションである。

そんな僕もやがて、「論破だけでは足りない」ということを知った。
「純粋な最短の論破」がしばしば事態を悪化させるという体験を重ねた。
ちょうど僕は手品を通じて、表現やパフォーマンスに興味を持っていたので、言い方を工夫することで相手に言葉を届きやすくするということをいろいろと試行した。
しかし結局、根底にある方法論は論破だった。
相手の間違いと自分の正しさを客観的に証明すること。僕は本当に、これ以外の説得の手段というものを長らく知らなかったような気がする。

2010年、僕は「人狼」というゲームに出会った。
百戦錬磨どころか千戦錬磨の人狼プレイヤー達の会合にひょんなことで飛び込み、僕はそこで恐ろしいものを見た。
世の中には、ぞっとするほど説得の上手い人間がいる。あまりにも華麗過ぎて、「説得された」という自覚すら与えられないうちにゲームは終わり、彼らは勝つ。ただ彼らの勝率が、その隠された「本当の意味での説得力」の高さを静かに語る。

そうして僕は「人狼」というゲームにはまり込み、2年ほどして、少しは「らしい」プレイが出来るようになってきたところだ。

人狼ゲームを散々やった中で、僕が学び取った「説得」というものを、ここに文章で書き表してみよう。
きっと言葉で書けばいかにも当たり前の、どの本にも書いてあるようなことだろうと思うが。

説得はまず、観察から始まる。
人狼ゲームにおいても現実の会議においても、議論に参加しているのは複数のプレイヤーだ。チームは明らかになっていない。
まず見極めなければならないのは、誰が味方で誰が敵かということ。これはゲームのルール上の意味ではなく、所属部署などという表面的な意味でもない。もっと具体的に言えば、誰が僕に好意的で誰が否定的か、ということだ。最初はわからないが、会話を重ねるうちに段々と見えてくる。もちろん、ダイナミックに変化していくので、一度見極めたからといって油断はできない。

味方同士がお互いを認め合うと、次第に場は2、3のグループに緩やかに別れていく。
だがここでも観察を怠ってはいけない。表面上は敵のチームに属していていも、実は水面下で僕の味方をしようとしてくれるプレイヤーがいるかもしれないからだ。もちろんその逆もある。
誰もが味方には油断するから、その隙を突こうという戦略が当然生まれる。これは現実の会議でもきっとあることだろう。

敵味方の次に見極めるべきは、敵の中の誰を説得するか。
敵の中心人物一人を狙い撃ちにしてうまいこと説得出来てしまえば、オセロがひっくり返るようにして揃ってころりと味方してくれる可能性が高い。
あるいは、中心人物は頑固者で意見を変えそうにないので、その一人を残して取り巻きを狙うほうが良い場合もある。
人狼では必ずしも常に全員にむけて発言する必要は無いので、席の近い人にだけ聞こえるようにして敵の「中心人物」への不審を植え付けるというようなことも出来る。そうやって一人ずつ引きはがしていく。
数が大事な局面ではそれが有効だ。(もちろん、頑固者を説得する以外に勝ち筋が無いという場面もしばしばある。)

説得のターゲットを決めたら、フォーカスを絞って、「どんな説得が有効な相手か」を見極める。
ここでようやく手段の1つして「論破」が挙げられる。だが、決して良い手ではない。
多くの場合、論破以外の方法が取られる。撹乱する、情に訴える、感覚を刷り込む、などの手段がある。

最善手は「流れに乗せる」ことだ。
議論の場には、様々な流れが渦巻いている。
その中のひとつに、僅かばかりの介添えで乗せてしまう。これが綺麗に決まると、説得された当人は「説得された」と感じること無く、「自分の意志で意見を変えた」としか思えない。

流れというのはいかにも抽象的な言葉だが、数学の分かる人向けに言えば、「個々のプレイヤーの心境と発される言葉のベクトル場における流線」というようなものだ。1つ1つの対象ではなく、場の全体をぼんやりと俯瞰することで初めて見えてくるのがすなわち「流れ」である。

説得の境地は、「流れを作って、乗せる」これに尽きる。
それに必要なのは、ミクロからマクロまで全てのフォーカスで同時に場を観察し続ける能力である。

そんなこんな、長々と書いたが、何はともあれ、今の僕は「論破は説得ではない」ということを知っている。
しかし今もなお、論破こそ「一切の駆け引きの無い、極めてスピーディなコミュニケーション」と信じているし、それが通じる相手とはそれで会話したいと願っている。
現実の会議には、ディベートのように「自分の立場を途中で変えてはいけない」というルールはないわけで、どんなに自分の意見に自信を持っていても崩されたと分かったときは速やかにそれを捨てるべきだし、論破した側もそこに敬意を表するというのが、僕の思う、至高のコミュニケーションである。

“Hold on tightly, let go lightly.” -Peter Brook-

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