「疑わない」技術

「疑うことを知らない」のは、良いことか悪いことか?

多くの人間が、自分を疑われる事に対して不快を感じる。自分を信じてくれる存在を欲する。故に、「自分を疑わない人間」は、嬉しい存在である。
一方で、世の中には、他人を陥れようと常に企む連中が存在する。自分の家族、友人、恋人が、そういった罠に年がら年中ひっかかっるとすれば、これはもう、困った問題以外の何物でもない。「他人を疑わない人間」は、困った存在である。

自分のことは信じて欲しいが、他人を信じるのはほどほどに。これが、人々の平均的な希望と言ってよい。

都合、良すぎるよね。

まあ、そんなもんだ。

「如何にして人を信じ、如何にして人を疑うか?」
これは難しいテーマである。
難しくて答えることが出来ない、という人であっても実際には常日頃人を信じたり疑ったりしているはずなので、つまり、言語化されていないにせよ何らかのモノサシは誰もが持っているはずだ。

信じるか、信じないか。
この問題を深く考えてみると、実は中間状態が存在することに気づく。

例えば、目の前にいる人物の性別がわからない、としよう。
日常生活において、性別がわからないという体験はあまり無いので、恐らく多くの人が戸惑いを覚えるだろう。その不安定な状態に我慢出来ずに「どっち?」って聞いてみたり、そこまでの勇気がないためにコミュニケーションそのものを遠慮してしまったりするかも知れない。

しかし冷静になってみると、性別が判らないからコミュニケーションが取れない、なんてことは全くないのだ。判らないなら判らないなりに会話できるし、遊ぶ事も出来る。そのまま友達になることだって出来る。慣れてしまえば、実際には性別という情報が必要となるシーンなんてさほど無いということに気付く。(森博嗣のSFで、近未来に性別はプライベートな情報になる、というのがあり、僕はこれに同意する)

別の例。

たとえばmixiとかskypeとか、最近ならFacebookなどで、見ず知らずの相手から突然メッセージが来ることがある。
大きく2つの可能性がある。「業者」か、「業者じゃない」かだ。
(ここで言う「業者」というのは出会い系業者や詐欺業者を指していて、つまり、ある程度仲良くなったのちに金品を巻き上げることを目的としている相手を指す。)

業者という存在を知らないコドモは、無邪気に相手を信じ、やがて被害者となる。
業者という存在を知って間もない青年は、すぐさまコミュニケーションを断ち、我が身を守る。
しかしもう少し年を重ねると、「てっきり業者だと思ったが違った」というシチュエーションが出てくる。判断力が試される場面である。

「業者」か、「業者じゃない」か。

どちらとも断定できない状態でコミュニケーションを続けるのには不安を感じる。これは標準的な感情だと思われる。そこでさっきの性別の例を思い出してみよう。
冷静になってみると、「判断つかないままにコミュニケーションを続ける」というのもあり得るのではと思えてくる。具体的に言えば、「業者じゃないかも知れないので丁寧に応対するが、業者に知られたくない情報はそれとなく拒む」というようなことだ。

そんな特別な事ではなく、誰もが普通にやっている事かも知れないが。

自分と関わる人々に対して、この人は信じられる、この人は信じられない、という両極端な分類をせず、「少しだけ、しかしずっと疑い続ける」というのは、別の意味でも大事な事だと思っている。というのは、「伝達の精度が100%で無い以上、100%信用できるなんてことは絶対にあり得ない」からだ。

大抵の人を90%くらい信じていれば、ほとんど支障無く人生は送れる。僕の事も90%信じてくれればまったく問題ない。それで丸く収まる。

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