テオ・ヤンセン

6日に、テオ・ヤンセン展へ行った。

プロフィールを見ると、大学で物理学を専攻した後、画家になった、とある。いかにも駄目学生風の経歴と読めた。並んでいたのは塩ビのパイプをガムテープで無造作につなぎ合わせたようなもので、あばら骨のような骨格を思わせる奇妙なガラクタの数々だった。
このガラクタ共が「実際には動くらしい」ということは事前に知識として知っていた。緻密な計算に基づいた、さぞ洗練された機構だろうと想像していたのだが、目の前のガラクタはとてもそのようには見えなかった。さして深い洞察も無く、ノリとガッツで試行錯誤を繰り返しているうちにだんだん動くようになったのだな、と思われた。

「生命とは何か」風の展示ストーリィもあまり感心はしなかった。テオ・ヤンセンは生命の本質を突き詰め、それを独自の手法で再構築していった、というような内容だったが、生命を再定義するなんていうのはあらゆるジャンルで実施されてもはやすっかり陳腐化した手法である。そしてまた、これらのガラクタが何らかの深い哲学に基づいて設計されたとも思えなかった。要するに「後付け」と感じられた。

というような低空飛行のテンションで、ご本人ならびに最新の「テオ生命体」と対峙することになったのだが、動く実物を目の当たりにすると、いままでの印象は一気に吹っ飛んでしまった。
まったくとんでもない話である。メカに対する僕の常識があっさりと覆される瞬間を体験した。

それは、全長10m強の巨大な「生命体」であった。数多くの関節(300くらい?)を持ち、電力はいっさい使用しない。
一般に、機械の複雑さが増すと、故障率は指数的に増大する。わずかな誤差や故障で一部の動作がロックすれば、それで全体が止まってしまう。
300もの稼働部があれば、通常は固い金属をかっちりとジョイントし、できるだけ「遊び」の出ないようにするのが普通だ。さもなくば、ちょっと動いてもすぐ止まり、また調整してすぐ止まる、というような騙し騙しの動作になると予想される。

しかし、「それ」は動いた。極めて滑らかに、驚くべき軽やかさで、しかも安定していた。そんな馬鹿な!
動くだけではなかった。「それ」には触覚があり、この触覚にモノがあたると歩行の向きが反転する、ということだった。その通りのことが、当たり前のように目の前で起きた。
触覚のある側の反対側には管が生えており、この管の先が水に触れると、再び歩行の向きが反転する、ということだった。まったく機構が想像できない。その機構もまた、軽やかに、当然のように動作した。

不確実な構造体で、なぜこのような動きが実現するのか。
テオ・ヤンセンの作品はいずれも、まったく同じ機能を有する部位をいくつも並列に持っている。そしてこれらが「かっちり」ではなく、「ゆるく」ジョイントしている。そうすると、いくつかに動作不良が発生しても全体としては動作を続けることが出来る。「冗長性」である。

掛け合わせると発散するが、足し合わせると収束する。

テオ生命体は、安定動作のために冗長性を有し、それが必然的に「生物らしい」外観とモーションを生み出している。「生物とは何か」という問いを深く鋭く洞察し、そのエッセンスを高純度で培養して具現化したものが彼の作品だったのだ。

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