アーカイブ ‘ 2007年 5月

OBに代わる言葉は無いのか

OB会、などと気軽に使われるこのOB、実はOld Boyの略でしかも和製英語、海外では通用しないというのだからかっこ悪いことこの上ない。
しかもBoyなんていう単語が入っているものだから仕方なく気を使ってOB・OGと言ってみたりする。OGはもちろんOld Girlである。
そしていざ会場を見回してみるとBoyもGirlも一人も見当たらなくて、オジサンオバサンばかり。ひょっとしてOGさん、OBさんの略なのか、なんて。あれ、性別が逆だぞ?なんて。
Old PersonでOPというのも提案されているようだが、OP会って。むしろ新入生が来そうな若さを感じてしまう。

じゃあ海外ではなんて言うのかと調べると、almuniなんていう単語が出てくる。発音はアラムナイでラにアクセント。
誰が聞いても宗教法人を思い浮かべそうな音感である。アラムナイ・メンバなんて言葉が日本で市民権を得る日は永久に来ないことが明白だ。
まして、almuniもよくよく調べると男性名詞だってんで、より正式にはalmuni and almunaeっていうらしい。ちょうどミレナリオとルミナリエみたいなものだろうか。

OB会、という語感は非常に良いのである。だから、OBという文字は残し、実はOld Boyじゃなくて別の言葉の略なんですよ、って言えれば良いのではなかろうか。

Obsolete Backers (旧式の支持者)なんて、控えめに親切そうな感じ?
Oppressive Bother (強迫的に面倒な人)と言われないように気をつけねば。

辞書だけ見ながら書いた。英語センスの弱いのがばれそうだ。
要native check.

父には敵わない

いまさらだが、ゴールデンウィークの話を。
埼玉の実家へ姉と二人で帰り、家族4人で公園でぐだぐだするというイベント。

家から車で15分ほどのところに、一週4kmほどの大きな公園があり、幼少のころは時々そこへ出かけていって父親とミニサッカーしたりキャッチボールしたりラグビーごっこしたりした。
そんなノスタルジィを思いつつ企画したイベントだったが、同じくらいの距離に新しい公園が出来ているとかでそちらへ即変更。「何の未練も無いし」と声を揃えて言ってしまう、ノスタルジィ感の無い姉弟である。

(そういえばJIS準拠なら「サッカ」だろうか?森博嗣ルールならラグビィか。)

お弁当を食べ終わって一休みしたあとの、公園日和の昼下がり。
父親とフリスビィを始めた。僕は小学生の頃からフリスビィは好きで、けっこう得意になっていたのだが、そういえば父親と投げ合った記憶がないことに気づく。父はどうも投げ方が分からないといった風で始まったが、さすがは元野球部、10分もするとだいぶ慣れて、良い返球が来るようになった。

しばらく調子に乗って投げ合っていると、やがて父が「ちょっと待て」と言って芝生に座り込んだ。
いつのまにか30分も経過していて、広い芝生をかなり走り回ったことになる。
気温も高い。
そういえば父は60を過ぎているのだ。よくもまあ、元気なものだ。
僕も知らず知らずのうちにずいぶんと運動量を消費したし、ここらで休憩かな、

と、思いきや。

座り込んだ父は、マジックテープで両足首に巻きつけてあったものをはずした。
なんと、両足にずっしり重いウェイトを巻いていたのだ。さあ軽くなった、とやる気満々で立ち上がる父。

「亀仙流か!」
つっこまずにはおれない展開であった。父には敵わない。

—-

余談だが、最後のツッコミは気持ち的にはJavaScript風にこんな感じ↓

if(visitor.age>30){
"星飛雄馬か!"
}else if(visitor.age>26){
"亀仙流か!"
}else if(visitor.age>22){
"海堂先輩か!" // うろおぼえ
}else{
"欧米か!"
}

wait(3sec);
if(visitor.emotion≠laugh){
"いまのは何が面白いかというと"
run("help joke --verbose");
}

テロ対策の一案

マイミクのぽよろこさんの、「空港の保安検査が面倒すぎる」 という日記を読み、僕も根本的なテロ対策を考えてみました。

まず、飛行機に自動運転モードもしくは遠隔操作モードをつけます。一度そのモードに入ったら機内からは決して復帰できないという仕様です。
ケータイのリモートロックみたいなものです。
GOスウィッチは、ボディガードを引き連れている飛行機会社幹部だけが持っています。
テロの危険が確認され次第、管制塔から特殊信号を発し、該当機は制御不能となって近場の海などへ着水します。
この一連のシステムにより、9・11のようなハイジャックによる大惨事は不可能となります。
テロに飛行機を利用する大きな動機を奪うことになります。
実現可能性も決して低くないでしょう。

しかし若干の問題が残っています。機内乗客の安全です。
状況は地下鉄テロと同じで、密室である故に対策は困難です。
用心棒を雇うとかはダメです。逆にテロリストに利用されてしまいます。

ここで、喫煙、禁煙の発想を応用します。
テロ許容機と、テロ禁止機の区別をし、乗客が選択できるようにするわけです。
テロ許容機を選択すると、保安検査をパス出来ます。
その代わり、同じ飛行機にテロリストが乗り合わせるという極めて低確率の災難に見舞われた際には命の保障はありません。
保安検査がどうしても嫌な人はそれに乗ればよいわけです。そして、極めて相応しいリスクを負うわけです。

ついでなので、「喫煙可能機=保安検査無し」としても良いかも。
テロで亡くなる確率よりタバコで亡くなる確率のほうがずっと高いので、愛煙家=テロに巻き込まれるなど屁とも思ってない人、と解釈しても差し支えないでしょう。(しかもぽよろこさんにとっては一石二鳥!)

保安検査有りだからといってテロの危険がゼロになるわけではありません。
ですが、ゼロにはならないにせよ間違いなく危険性は低くなっているはずです。
保安検査の厳しさに応じて、危険性は低くなります。
ということは、有り、無しの2択ではなく、厳しさに応じて5段階とかに分けるのも良いでしょう。
最上級は「全裸」です。でもそうなると別の種類のテロリストに、などとあまり膨らましすぎると僕らしくないのでこれくらいに。

ねずみ男のツッコミが面白かった件

日曜9時にテレビを見てたら「ゲゲゲの鬼太郎」が始まった。
オープニング曲が変にお洒落にアレンジされてて可笑しい。

以下、ろくろっくび(若い女の妖怪)とねずみ男、妖怪村の蚤の市での会話。
男「で、このマフラーは?」
ろ「あたしの手編みよ♥」
男「長すぎるだろ!」

文章で書くと面白くないな。

独創の星モデル

世界中のアーティストが、それぞれ10作品を作ったとしよう。これらが強い引力によって結び付けられ、宇宙空間で1つの星になって浮いているのをイメージしてほしい。
ピアノやら石像やらが、ちょうどカタマリダマシイのようにくっついた星だ。
作品の材料は「独創」であり、創造力の強いアーティストほど大きな作品を作る、としよう。
星には重心が存在する。重心とは、平均値のことだ。重心から離れるほど、独創的である、としよう。

自分の足場をこのあたりと定めて作品を積み上げてゆくと、ゆるやかな丘になる。
或いは空に1つの目印を決めて、ひたすらその一点へ向けて作品を慎重に積み上げてゆけば、細く高い塔になる。
細すぎる塔はまもなく高さの限界を迎える。土台を固めなおして更なる高みを目指しても良いし、置き去りにして別の土地に別の塔を建てても良い。あまり離さずに2つの塔を建てることが出来たなら、上空に連絡通路を建設可能かもしれない。

高いところへ登れば視界がひらけ、近隣の高い塔を発見出来るだろう。
しかし、どんなに高く登っても星の反対側までは視界に入らない。

充分に近いか、充分に差がない限り、2地点の高さを比較することは容易ではない。
アーティストは皆、それぞれ自分の巻尺を持っているが、自分自身が登ってみないことには高さを計ることが出来ない。
もちろん、他人の巻尺の数値はあてにならない。

人間は生まれた瞬間、この星のほぼ重心に位置する。
しばらくは他人の作り上げた構造物を上へ上へとよじ登る。
ある人は未開拓の平地をみつけて、そこに自分の作品で丘を作る。これが「独創的」だ。
ある人は先人の建てた高い塔をよじ登って、そのてっぺんに自分の作品をちょこんと乗せる。これも「独創的」だ。

50mの塔のてっぺんに10cmの作品を積み上げたりする。
小さな作品であっても、頂上に積み上げることが出来たならそれは快挙だ。
なにしろ、その高さまで登ってきたことが既に快挙だ。
同じ塔のてっぺん付近にいる一握りの同志たちから賞賛の拍手を得るだろう。
少し離れたところにいる人々からは、10cmの作品は小さすぎて見えないかもしれない。

あなたが実際に芸術家の渦中にいるなら、芸術の領域を星の表面すなわち二次元でモデル化したことに不満を示すかもしれないし、高さという一次元の単純化した評価軸ですべてを計ろうとすることに抗議するかもしれない。
あなたが数学者なら、言うまでもなくこのモデルを無限次元空間で一般化してくれるだろうから、弁解は不要なのだが。

ArtとEntertainment

以下のように定義してみる。

アートは自分の内から出るもの、エンタテイメントは他人に合わせるもの。
アートは自分を満足させるもの、エンタテイメントは他人を満足させるもの。

エンタテイメントの究極とは、より多くの観客を満足させることだ。
100人の「客」がいて、各々好きな果物を頭に思い描いているとしよう。
手元に1万円あったときに、どんな組み合わせで果物を買うべきかは数学的に求まる。
エンタテイメントとは、単純化すればそういうことだ。
人々が何を求めているかさえ明確なら、その場(field)には「最高のエンタテイメント」が定義される。
そこにエンタテイナが登場する以前に、既にそれは存在する。
エンタテイメントの究極とは、既に存在している隠された答えに、出来る限り近づこうとすることだ。
エンタテイメントには本質的に、独創性は要求されない。

人々はしばしば、過去に経験したことのない事を好む。これが問題を複雑化している。
この複合問題はまた今度考えることにする。

アートに関しては、2段階に分けて考えようと思う。

アートαの究極とは、徹底的に外界からの干渉を排除することだ。
自分の内側に向けてじっくりと耳を澄ませ、出来るだけ純粋な形でそれを掘り起こすことだ。
つまり、独創だ。

「独創」は必ずしも「独創的」ではない。
二人の人間が、それぞれ独自に創造したものが、たまたま同じ結果になるということは珍しくない。

「アートは自分のため」という冒頭の定義に純粋に従うなら他人の存在は一切関係ないのだが、一般には「他人にアートと認められるアート」という概念があるようなので、これについて考えたい。
第2段階として、「独創的」を追及しよう。

アートβの究極とは、他の誰も到達しえなかった領域に到達することだ。
これに関して、1つのモデルを考えているので後日紹介しようと思う。

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