「謙遜」に関して
この年の瀬にラディカルな記事を載せようというのだからいったい何を考えてるのかくぼーん。
僕は、自分の能力を隠すこと、あるいは過小評価することに対して大いに否定的である。
これはもう、小さい頃からずっとそうだ。
僕を指導する立場の人間から、しばしばこんな注意を受ける。
「本当に実力のある人間は、それをわざわざ口に出したりしないものだぞ」
この言葉自体を否定するつもりは無い。
テレビ等を見ていると、その世界のトップとされている人物達は、誰しも非常に謙遜にふるまい、自分の能力を殊更に自慢するようなことは決してしない。
そういうのを見て、彼らは言うのだろう。
「こういう謙遜な態度があってこそ、彼はトップになりえたのだ」
そうなのか?
本当にそうなのか?それは、因果が逆ではないか?
トップで謙虚なヒトが出来上がるには、2つの経路がある。
「謙遜だから、トップになった」
「トップになったから、謙遜になった」
どちらのほうが自然な因果だろうか?
周囲の人間に実力を認められ、尊敬の眼差しを絶えず受け止めている立場の人間は、わざわざ自分の自慢話をしたりしない。それは、その必要が無いからに他ならない。既に地位を確立した人間は、アピールする必要など無い。そこまで上り詰めて初めて、余裕の表情で「いやあ、それほどでも」が言えるのである。
実力を発揮する場がきちんと与えられ、そこで十分に能力を発揮し、認められて、そこでようやく「謙遜」という選択肢が有り得るようになる。
逆に、まだ実力を認められていない人間、実力を発揮する場を与えられていない人間が、「いやあ、それほどでも」とでも発言しようものなら、「ああ、そうですか」と鵜呑みにする他ない。
「能ある鷹は爪を隠す」という格言が、どうして良い意味で使われているのかが分からない。
爪って、獲物をとるためのものでしょう?それを隠すって、詐欺の話じゃないの?
「良さそうな人に見えるからって、うまい話に乗っちゃダメ。能ある鷹は爪を隠すって言うでしょう?」
みたいに使って欲しいな。
ま、これは半分冗談だけれど。
ここまで慎重に、「謙遜」という言葉を使ってきた。
「謙虚」と「謙遜」は意味が違う。「謙虚」のほうがより内面的な概念だ。また、「隠す」という意味も無い。
謙虚という言葉から僕が連想するのは、キリスト教世界でいうところの “gift” という考え方である。
素晴らしい才能というのは、自分の力だけで得たものではなく、神様からの贈り物ですよ、ということだ。
この考え方は悪くない、と思う。