三軒茶屋のMc
夕方、三軒茶屋のあたりをひとりふらふらしていたところへ、突然の雨。
あわてて駆け込んだのがマクドナルド。
雨の弱まるのを待つこと5分ほど。
「傘、よろしければどうぞ」
店員が傘を手渡してくれた。
おそらく、過去に客が忘れていったものだろうとは思うが、予想外の嬉しい対応だった。
有難う。今度寄ったときには何か買います。
夕方、三軒茶屋のあたりをひとりふらふらしていたところへ、突然の雨。
あわてて駆け込んだのがマクドナルド。
雨の弱まるのを待つこと5分ほど。
「傘、よろしければどうぞ」
店員が傘を手渡してくれた。
おそらく、過去に客が忘れていったものだろうとは思うが、予想外の嬉しい対応だった。
有難う。今度寄ったときには何か買います。
手品を頼まれることはしばしばだが、今回は司会ときた。
それも、二次会ではない。人前式から披露宴に到る、A4にして10枚弱の原稿。
新婦のがーこちゃんが、それはそれは熱い思いを込めて深夜の3時ごろに書き上げたであろう異様なテンションの原稿を最初に受け取ったときは一抹の不安もあったが、自宅で何度か通して読み上げてみると、これが結構楽しい。
そういえば、結婚式の司会は高校の時に一回やったことがあるんだった。
男子校の学園祭で、ミスターコンテストの優勝者と女装ミスコンの優勝者の結婚式を挙げる、というもので、僕はなぜかシスターの服を着て(何もわかっちゃいない)「では、誓いのキスを。。」とか恐ろしいセリフをマイクに乗せるわけだ。
ただでさえ可笑しいのに、そんな記憶のリプレイも手伝って当日はどうなることやと思ったが、いくらなんでも式の最中に司会が吹き出しちゃまずいだろうと、必死で自己暗示をかけて笑いを殺していたわけです。
そしたら、初っ端、いざ新婦が父親に連れられて式場へ入場する直前に、今まさに開かれんとする扉の向こうでがーこちゃんの爆笑が響くわけですよ。
おかげで気が楽になった。って、そもそもそんなに緊張してなかったけどね。
もともと、人前で話をするのは結構好きだ。
といっても台本無しで講演できるほど口は達者ではないのだけれど。
小学生のときは、まず手を挙げて、先生に指されるまでの間に答えを考えるのが好きだった。
あまり関係ないか。
とにもかくにも、僕は今回司会を任されて、普通に客として参加するよりずっとずっと楽しめた。
一生に一度の式典の司会を僕のような素人に任せるという英断をしてくれたがーすけ氏とがーこ嬢には心から感謝したい。
またやりたいので、是非誰か僕に頼んでください。
話しついでに。
式は式だから式でいいとして、披露宴たるものは昔はおそらくもっと形式があったのだろうがどんどん崩れてきてみんな好き勝手やる時代になった。今日みたいなのを見るとますますそう思う。いっそ、場所と料理だけ借りて、あとは演出から音響も照明全部こっちでやります、見たいな感じでやりたいなあ。
みたいなことをYuya氏と話してたら、「いや、式もそんな感じでいいんじゃね?」とか言われた。
ニセ新郎を用意して、指輪交換くらいのタイミングで「その結婚、待ったー!!」といいながら登場するとかね。
是非やって欲しい。全面的に協力したい。ニセ新郎やって、黒いマントを翻して窓から逃げたい。
飲み食いするには、ぜんぜんよゆーですよ。
映画を快適に見るには、まあ、これくらいが限度かな。
4月に越してきた北区の新居ですが、ついにホームパーティやった。
楽しいったら。
DVDで鑑賞。
内容が素晴らしいのは言わずもがな。この1週間で10回くらい見た。
小林賢太郎、器用すぎ。
ラストに流れるBGMが実はすごい気になって、どこかでフルコーラス聞きたい。
そんなことはない。
事前に地図で調べるにしろ、その場でカーナビに頼るにしろ、通った道はだいたい覚える。
「コーヒーを飲むと眠れない」
そんなことはない。
眠いときはカラオケの大騒音の中でだって眠れる。
(寒いのは勘弁だけど。富士山の頂上はホントに死にそうだった。)
「東京の水は不味い」
そんなことはない。
飲んでみ。
少なくとも神奈川や埼玉よりは美味しい。
「夜景が綺麗」
そんなことはない。
いや、ホントはちょっと綺麗かもって思ったことは何度もあるけれど、夜景が綺麗になるほど、エネルギィを浪費してるってことに他ならない。
それにきっと、この夜景が全部すっかり消灯したら、満点の夜空はもっとずっとずっとbeautifulでしかもcleanなんだ。
という映画が公開中らしい。
いかんせんタイトルが気になる。
なんせ、7月24日と言えば、僕の誕生日である。
この日付にどんな歴史的意味があるのか、あるいは数学的な秘密が隠されているのか、あるいは単に語呂が良かったのか。
映画を見れば明らかになるだろうか。
この映画が大ヒットしたら、来年の僕の誕生日はさぞ楽しみだろうが、様子を見る限りはどちらもあまり期待できそうにない。
— タダコピ.COM —
しかも裏写りしないよう、少し厚めの紙を使うそうだ。
それは明らかに環境負荷を上げるだろう。
困った。
このサービスを思いついた学生諸氏を非難するのは既にいろんな人がやってて面白くないので、もう一歩踏み込んで考えよう。
ビジネスとして成立しうる以上、彼らがやらなくてもいずれ誰かが始めたことに違いない、と考える。
こういう馬鹿げたビジネスが仕組みとして成立してしまう社会システムに欠陥があるのだ。
ビジネスとして成立するとはこういうことだ。
コピー代(10円)<広告収入
どんなに数学が嫌いなヒトも、ここまではわかるだろう。ところで、広告収入とはなんだ?
1つ売れると\1000利益が出る商品があったとする。これがいくつ売れるか、という数は、その商品を知っている人間の数に比例する。500人がその商品を知ったら、一人が必ず買うものとしよう。
500人に宣伝すれば、\1000の利益が出る。
となれば、500人に宣伝するために、\1000未満の広告費を費やしても良い、ということになる。
一人当たり、2円だ。
さて、この計算を今度は逆に辿ってみよう。
ただコピの場合、1枚の広告費が10円(以上)である。この1枚で、果たして何人に宣伝効果があるだろうか。
まあ、それほど多くは無い。多くの人間が、自分が見て、捨てるだけだろう。
一握りの人間は、面白がってそれを友人たちに見せびらかしたりするかもしれない。
しかし、平均が5を超えるとは思わない。まあ、多めに見積もっても3人くらいだろう。
10円で、3人。100円で、30人。1000円で、300人。
300人に一人が買いたくなるような魅力を持った商品を、\1000の利益が上がるような価格で売ることが出来るなら、「ただコピ」は成功する。
あまり、割が良いとは思えない。
もっと安くて効果的で環境にも優しい広告の方法はいくらでもあるだろうに。
と、うまいことマイナスイメージを植えつけたところで、お開き。