アーカイブ ‘ 2003年 2月

遺伝子と肉親と

新聞記事より。自分が、精子バンクの匿名精子で生まれたということを知った、ある子供。「今の父親は他人としか思えない。」

なんですの、それ?育ててくれたことよりも、遺伝子がそんなに重要なのか?ぜんぜん感情移入できない。

子供には、自分の出生を知る権利があるとかなんとか議論してますが、僕なんぞは、出生なんてどうでもいいと思うので、例えば今更、「実は私が君の本当のお父さんなんだ。」とかいう人が現れたとして、はいそうですか、それはそれは。まあお茶でもどうぞ。という程度の話である。

ロシアン・ティー

紅茶を淹れてる最中に ころりと忘れて 10分後。

一口なめて 苦笑い ジャムでも入れて 誤魔化すか。

湯気の向こうに僕の顔。 苦い紅茶に・・・ 笑いジャム?

レニングラード国立バレエ

とてもとてもラッキーな成り行きで、ちょっとお目にかかれないような高価な舞台を見る機会に恵まれた。「海賊」というバレエである。しかし、なぜバレエというのは、脚本はまだしも、踊りや使う小道具までも古典に習うのか。演劇の視点から見れば実に奇妙だ。音楽の世界では、まあ、当たり前だけれど。

などと考え始めると舞台がいつのまにか進んでしまってもったいないので、心を無にして楽しむ。

世にも奇妙な実話

今日の舞台は不忍池。自転車で学校から上野駅へ帰る途中だ。もちろん、あたりは真っ暗で、人気はない。

チリリリーン。。。。自転車のベルが聞こえたので、脇によけて、速度を落とした。

しかし、周りには、誰もいなかった!!!

(効果音「キャー」)

自転車のベルにもいくつか種類があるが、僕の自転車についているのは、巻きバネが内蔵されていて、往復で音が鳴るタイプである。(この説明で通じるだろうか。)これが、バネに力がかかった状態で微妙に引っかかっていると、ふとした衝撃でバネが戻り、突然勝手に鳴ることがある。

というわけで、自分の自転車のベルが鳴った、に、違いない。が、今回は、確かめようが無いから、実は違うのかも!

(効果音「キャー」)

本日の朝食

きくらげのしぐれ煮、ひじきと味噌のオムレツ、大根の味噌汁。

台所のストックから多量のきくらげとひじきが発見されたため、インターネットでレシピを検索した。ひじきなんぞ、油揚げと煮たものか、混ぜご飯の具になっているものしか見た事がなかったが、探せばいろいろでてくるものである。

こうして、「使わなきゃいけない素材」という縛りがあることによって、新たな料理に挑戦する気が起きる。以前、肉を使わないことにしたときも、いろんな豆類の研究が進んだ。大豆料理に豆腐料理、レンズ豆にヒヨコ豆。制約を加えることで、無理やり横に広げる。スライムを踏みつけるのに似ている。(ぜーんぜん!)

それなりに気を使って、他のメニューも和食に統一する。和食の味付けはよくわからないのだが、ここにイタリアンなサラダを加えるわけにも行かないので。

当面の課題は「おいしそうに見える」ことだ。和食は、とかく、色が暗い。味付けに醤油なんぞ使えば一発で皿中真っ黒である。気がつくと、焼き魚も、ワカメも、みんな暗い色をしていて、食卓中真っ黒だったりする。ご飯が白いのが救いだが、彩度がゼロに近い。難しい。。。

幻想的工事現場

想像を絶する強力な光源が、道幅いっぱいの特殊車両の上に君臨し、半径10mほどを作業可能にしていた。その車両の、手前は砂利道。向こう側は、見事に舗装されたアスファルト。ゆっくりとゆっくりと、その境界線がこっちに向かってくる。そのあまりの不連続さ、急激な変化のせいで、地上の境界線が空へ伸び、あたかも異空間の境界面があるかのように錯覚する。

おそらくまだ柔らかいアスファルトの上を、熱せられたローラー車が走る。闇を立ち上る水蒸気が、ヘッドライトに切り取られ、地面にへばりつく。水蒸気はそんな動きをしないはずだという認識を、意図的に忘れて。

いつの間にか体が冷えてきたので、小走りで家路を急いだ。

リング 読了

本来は、先日の鈴木光司講演会の前に読むはずだったのだが、ようやく昨日読み始めて、今日、喫茶店で読了。

うーん。。。好きくない。これは、何かが斬新なのですか?人物は浅いし、ストーリーは変に調和しすぎてて微妙に不自然。ひょっとして、この、オチが売りなのか?似たようなこと、中学生くらいのときに考えなかった?

続きかぁ。。あまり読む気がしないぞ。

一目惚れから一年経って

例えば服装に関して言えば、昨日出会った人物のものでも思い出せないような僕である。自分が気にしていないことは、他人がどうでも気にならないものだ。が、ある日、たまたま駅のホームで見かけたとき、おっ、と、思った。誇張なしで、惹きつけられたのだ。鮮明に記憶に残ったのだ。けれど、その時は、それっきりだった。

それから1年近く経ったある日、上野のデパートで、ばったり遭遇した。一目で、すぐに分かった。ブランド物のカバンが並ぶ、その中に。

おっ。

こんなところで再会できるとは。しかし、我ながらよく覚えていたものだ。ゆっくりと近くまで寄って観察すると、見た目が良いだけではないこともすぐにわかった。直感は正しかったのだ。ああ、でも、惜しいことに。以前見た時と、全く同じではなかった。色違いだったのだ。黒だったのだ。グレィを見つけたら買おう、と、心に決めて、その日は帰った。

zabと称する、Samsonite製のリュック。値段は、今使っているカバンの10倍だ(今使っているものが安物なだけだが。)。そんなことまったく気にならずに、今日、買ってしまった。ちっとも後悔していない。

多摩美術大学卒業制作展

上野の森美術館にて6日まで。入場無料。通り道に、無料の展覧会があって、見ない手があろうか。まだまだ、絵の良し悪しを語るほどではないのだから、何を見たって、得るものが必ずある。

プロ志向とアマチュア志向というのか。大勢の人に良さが伝わる「名作」と、特定の人物の特定の「弦」にピンポイントで「共鳴」する作品、というのが確かにある。今日も一つ。

その絵は一見、あまりにも無秩序で、あまりにも抽象的で、何も感じない絵だったのだ。その足元に、作者の手記が公開されていた。何年か分の、彼の心の中の出来事、作品に対することのみならず、あらゆる雑多なことをあまり整わない文字でぎっちりと書き綴った手記。そのいくつかをぱらぱらと読むうちに、自分の中のわりと気に入っている部分と共鳴が起きた。似ている部分を見つけたのだ。あ、同じことを考えてるぞ。でも、彼は僕と違う結論にたどり着いているぞ。でもなんか似ているぞ。思考の過程が似ているのか?共鳴している。

目を上げて、絵を改めてみたとき。その絵に込められた思考が。思いが。さっきよりも、ついさっきよりも強く強く伝わってきた。ひょっとして僕が何か抽象画を書いたら、こんな絵になるだろうか。そんな気さえしてくる。無秩序の中に、控えめながらも奇妙に目立って一本だけ伸びる矢印!ああ、僕もこの絵のこの場所に矢印を書きこみたくなるような気がしてくる。愉快だ。すべてが勝手な思い込みに過ぎない可能性を否定できないというのがまた最高に愉快だ。

人間にも、万人に好かれる人間と、特定の人物を強烈に惹き付ける人間とがきっといて。後者の性質の人間が、万人に好かれたいという願望を持っている場合は不幸かもしれない。反対に、好かれたくもないのに好かれてしまう人もいるかもね。でも、好かれないように振舞うのは、ずっと簡単だ。それは、傍から見ると、もったいない、と映る。かもしれないけど。

ついでに、別のフロアで日芸大書道科の卒業展覧会を見た。最初、自分と同じ大学4年生とは知らずに見ていたのだ。かっこいい字だなぁ、なんて。惚れ惚れと。数分後に、同世代の人間の作品であることを知った時の、なんともいえない焦燥感。自分に、その能力があるか?書道ではないにせよ、何らか形でインパクトを与える表現手段を、自分は持っているか?人間的な深さを、持っているか?

そのほかにも多くを感じ、多くの思考が生まれたが、それは、またいづれ気が向いたら書くことにしよう。デジタルと技術と自由度と表現の話だ。まだよくまとまってない。

そしてそして。こんな風にいろんな思考をするきっかけを得たというだけで、十分に行った価値があったというものだ。本も何も持ってなくても、頭の中に考えるべきこと、考えたいことがいくらでもあって、ぐるぐると問題を解き続けて求め続けて、たったそれだけで時間が過ぎてゆく、そんな時期が過去に何度かあった。考えるべきことが何もないという不自然さすら忘れてしまうと、僕は年を取るような気がする。

click pencil

ドラッグという操作すら知らないその少年は、パソコンのお絵かきソフトと格闘しながら、突如、こう言い放ったのだ。

「ねえ、芯が出ないよ!」

ああ、だから子供は好きだ。

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